小説 老婆 4

 ぼくは外へ出た。トランクを右手に持ったり、左手に持ち替えたりして、市電までは順調にたどり着いた。
 市電では、連結車両の後部パネルに乗り込み、こちらに来て荷物と切符を受け取ってくれるように、女車掌に手を振った。一枚きりしかない30ルーブリ札を、車両の端から端へまわしていくのはいやだったし、トランクを置いて自分から女車掌のほうへ行く決心もつかなかったのだ。女車掌はぼくのいるパネルへやってきて、釣りがない旨を告げた。なんと最初の停留所で降りることになってしまった。
 仁王立ちで次の市電を待った。腹が痛み、足は軽く震えていた。
 すると突然目に入ってきたのは、ぼくの可愛いご婦人だった。彼女は通りを渡っていくが、こちらの方は見ていなかった。ぼくはトランクをひっつかみ、彼女を追って駆け出した。彼女が何という名前か知らなかったから、呼びとめることが出来なかったのだ。トランクは恐ろしく邪魔だった。両手で自分の前に抱え、両膝や腹でドカドカと押し出す。可愛いご婦人は早足でさっさと進んでゆくので、到底追いつけないような気持ちになる。ぼくは全身汗びっしょりになって、力尽きてしまった。可愛いご婦人が横丁に曲がった。ぼくが角までたどり着いたとき、彼女はもうどこにもいなかった。

「呪われた老婆め!」ぼくは地面にトランクをぶん投げ、かすれ声で叫んだ。
 コートの袖は、汗で透けるほどびしょびしょで、べたべたと腕にひっついた。トランクに座って、鼻かみ用のハンカチを取り出し、首と顔を拭く。二人の小僧がぼくの前に立ち止まり、こちらをじろじろ眺めだした。ぼくは穏やかな顔をしてみせ、まるで誰かを待っているかのように、すぐ近くの門をじっと見つめた。小僧どもはひそひそしゃべりながら、ぼくの方を指差している。荒々しい憎悪で息が止まりそうになった。ああ、こいつらに破傷風を伝染(うつ)してやれたら!
このいやらしい小僧どものために、ぼくは立って、トランクを持ち上げて一緒に門に近づき、なかを覗いた。あきれた顔をして時計を引っぱり出し、肩をすくめてみる。小僧どもは遠くからぼくを観察している。ぼくはもう一度肩をすくめ、門の中を覗いた。

「変だなあ」声に出して言って、トランクを手に取り、市電の停留所まで引きずってゆく。
 列車の駅に着いたのは、七時五分前だった。ぼくはリースィ・ノースまでの往復切符を買って、列車に座った。
 車両の中には、ぼくのほかにも二人いた。一人は労働者で、疲れているのか、ハンチングを目深にかぶって眠っている。もう一人はまだ若い男で、田舎っぽいおしゃれ男だった。ジャケットの下はピンクの縦襟シャツで、ハンチングの下からリーゼントのとさかが垂れている。彼はプラスチック製の派手なミドリ色の吸い口で紙煙草を吸っていた。
 ぼくはトランクをベンチの間に立てて座る。腹はひどく差し込み、痛みにうめいてしまわぬよう、こぶしを握りしめなければいけないほどだ。
 プラットフォームで、二人の警官が、どこかの市民をピケ隊に連行してゆく。彼は、背中で両腕を縛られ、頭をたれて歩いてゆく。
 列車が動き出した。ぼくは時計を見る。七時十分。
 ああ、どれほどの満足をもってして、この老婆を沼に沈めてやるだろう!ただ残念なのは、老婆をつついて押しやらねばならないにきまっているのに、棒を持ってこなかったことである。
 ピンクの縦襟シャツのお洒落さんは、無遠慮にぼくのことをじろじろ見ている。ぼくは彼に背を向けて、窓の外を眺める。
 腹に恐ろしい激痛が走った。ぼくは歯を食いしばり、こぶしを握りしめ、足を突っ張った。
 列車はランスカヤとノーヴァヤ・ジェレーヴニヤを越えてゆく。外に仏寺の黄金の尖塔が見え、それから海が開けた。
 けれど、その時ぼくは飛び上がって、周りをとりまくすべてを忘れ、小刻みな足取りでトイレへ走った。きちがいじみた波が押し寄せ、ぼくの意識をもみくちゃにする・・・。
 列車が速度を緩める。ぼくらはラフタに着いた。トイレから駅に追い出されやしないかと恐れながら、身動きもせずにぼくは座っている。
「はやく動き出しますように!はやく動き出しますように!」
 列車が動き出すと、ぼくは安堵のあまり目を閉じた。おお、愛の瞬間と同じほどに甘いこの数分よ!ありとあらゆる力をはりつめながら、このあとに恐ろしい落下が待ち受けているのを、ぼくは知っている。
 列車はまたしても止まる。これはオリギノだ。ということは、またこの拷問か!
 しかし今度のこれは仮性の欲求だったようだ。冷や汗が額に浮かび、心臓のあたりがヒヤヒヤとする。立ち上がり、しばらくの間、壁に頭を押しつけながら立っている。列車は進む。車両のゆれがとても心地よい。
 ぼくは全力を振り絞って、フラフラしながらトイレから出た。
 車内には誰もいない。労働者もピンクの縦襟シャツのお洒落さんも、ラフタかオリギノで降りたようだ。ぼくは自分の席へゆっくりと歩いた。
 そして突然立ち止まり、自分の前をぼんやり眺める。トランクが、置いておいたところに、なかった。席を間違えたに違いない。次の列に飛んでゆく。トランクはない。ぼくは前や後ろに飛びはね、車両の両側を駆け巡り、ベンチの下を見て廻るが、トランクはどこにもない。
 そう、疑う余地があるだろうか?もちろんトランクは、トイレにいる間に、盗まれたのだ。こんなことは予見できたろうに!
 ぼくは目を大きく見開いてベンチに座る。なぜか、サケルドン・ミハイロヴィッチのところで、エナメルがパシッと音をたてて、真っ赤に焼けた鍋から弾けとんだのを思い出した。
どうなっちゃったんだろう?」とぼくは自分に聞いた。
「うん、ぼくが老婆を殺したんじゃないなんて、いまや誰が信じるだろうね?頭を垂れて歩いていたあの市民みたいに、この場所でか、または町の駅で、今日にでも捕まるんだ」
 ぼくは車両の廊下に出た。列車はリースィ・ノースに近づいてゆく。道を区切っている白い柱がチラチラと光る。列車がとまった。ぼくの車両のはしご段は、地面まで届いていない。ぼくは飛び降りて、駅舎へ歩いた。町へ向かう列車まであと三十分。
 ぼくは森へ行く。杜松の木の茂みがある。その木陰なら、誰にも見られないだろう。ぼくはそちらへ向かった。
 地面を大きな青いイモ虫が這っている。ぼくはしゃがみこんで、彼女を指でさわる。彼女は激しくクネクネと、あちらこちらへ幾度か身をよじった。
 ぼくは辺りを見回した。誰もぼくを見ていない。軽い戦慄が背中を走る。ぼくは低く頭を下げて、小さな声で唱えた。
「父と子と精霊の名にかけて、現在未来とこしえに。アーメン。」

 これでも、もうじゅうぶん長いと思いながら、ここで一時的にこの手稿を終わらせることにする。

 

1939年 5月の終わりと6月前半)